【12/07(月)】
日テレ08:00-10:25の「スッキリ!!」で、12月19日公開の『牛の鈴音』を、約5分ぐらいのダイジェストで、恐らくあらすじのすべてを結末まで(正確に言うと、映画の撮影当時以降の近況まで)紹介していた。
これって、いくらなんでも見せ過ぎじゃないの?とも思うのだが、これでは見たうちには入らない、映画にはもっと紹介し切れなかった見せ場がたくさんあるという自信があるのだろうか?
それから、ドキュメンタリーなのに劇映画のように計算された構図やカメラワークだったことも気になった。
俯瞰があったり、ピン送りがあったりで、まるで予めセットしたカメラの前で「こう動いて下さい」と指示したか、多数のカメラマンが別々の手法で一斉に撮影したと考える方が自然だと思えたほどだった。
ドキュメンタリーの撮影のセオリーは、ハンディのカメラで自然に撮影すること。
その理由は、凝った映像を観客に見せること以前に、一瞬の出来事を確実にカメラに収めることが重要で、そのような事態に対応しやすいから。
また、本来日常には存在しないはずのカメラを、被写体はもちろん観客にも意識させない方がリアリティが出るから、そのためにはカメラが前面に出ないようにした方がいい。
とはいえ、ドキュメンタリーに「演出」が施されるのは程度の違いはあれ当たり前のことで、「やらせ」といわれるようなことまでやるのも珍しくない。
たとえば、オリンピック選手に競技とは別に記録映画用の別撮りをやらせた『民族の祭典』(オリンピア)とか、『WATARIDORI』にいたっては作り手が「ドキュメンタリーではなく作り物」と明言していたりする。
だから、『牛の鈴音』の見た目が作り物っぽいだけでは悪いと決め付けられないのだが、老いた牛と共に農作業を行う老人という自然で素朴なイメージの対象に対して、人工的な映画のスタイルが果たして合っているのか?疑問を感じた。
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【12/08(火)】
いつもは発売日より前に届くのに、今号は2日遅れで昨日届いたキネ旬をパラパラと見る。
昨日の『牛の鈴音』の演出スタイルについて、監督のインタビューを読むと、やはり一般的なドキュメンタリーのイメージである「客観性」よりも、主観的な映画を作ることを重視したのだとのこと。
それなら、手法の選択のポリシーの是非に関しては「是」で、あとは結果的に成功か失敗かが問われることになる。
そのインタビューの中で、主観的なドキュメンタリーを作るなら、『おばあちゃんの家』(★☆)のようなドキュメンタリー風フィクションを作ることを考えなかったか?との問いには、前者のスタイルに対する思い入れを語って答えていた。
『おばあちゃんの家』なんて、作り物っぽさが悪い意味で嘘臭いだけの映画になった最悪パターンの実例。
子供の教育という現実的で正面から向き合わなければならない問題を描きながら、その正解をキレイごとのファンタジーに求めるなんて。
あれをいい映画だと思った人は、世界一のファンタジー国家である北朝鮮以上に、キレイごとに溺れて現実に対して無責任な自分に気づいて猛省すべき。
まあ、あんな映画はもう二度と作られないで欲しいから、『牛の鈴音』がそうなってなけれないいのだけど、監督が「ドキュメンタリー」と「演出」の関係を解っているようだから、期待は出来るかな?