シネサルの「映画のブログ」

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 雑感:『GSワンダーランド』と、報われない日本のクリエイター

 本当は日記で書くべき内容だけど、今は日記の更新が1週間遅れのペースなので、日記とは別で今すぐに書きたいことを以下に。
 その書きたいこととは…、今公開中の映画で私がイチオシの『GSワンダーランド』(★★★☆)だけど、世の中の反応がなんとも悪い。
 絶賛のコメントも二、三しか見ないけど、批判的なコメントも中立的なコメントも同じくらいしか見ていない。
 そんなに注目されていないということか? 誰も観ていないということか?
 こういう事態に、当サイトが何も影響力を持っていないことに、無力感を感じてしまう。
 非力なことは判っていたけど、それでも改めて非力だと感じてしまう。
 まあ、反応が悪い理由として考えられることといえば、「取り上げている時代や風俗が、今観てもピンとこないと思われた」とかだろうと思う。
 現に、この映画に対するコメントで目にしたものの中には、「当時を知るものとしては○○がないのが不満」みたいな、ノスタルジーをベースに勝手な個人的なコダワリで批判されたりして、たまったものではない。
 逆に肯定的な意味で「懐かしい」なんて言葉を使っていたのもあったけど、こんなのは「当時を知らない世代は楽しめない映画」と思われかねないので、逆効果ではた迷惑
 年寄りって、下の世代の足を引っ張ることばかりして、本当に役に立たない。
 実際に観ればわかるけど、1960年代後半のGSというジャンルにスポットを当てた映画とはいえ、芸能に携わる人が何とかして売れようとする苦悩や、売れてしまったら路線を変えられない苦悩など、音楽以外の芸能全般に渡って過去だけでなく現在でも同じように通用するとても普遍的な内容。
 「羞恥心」だって、GSバンドの状況とそんなに違わないかもしれない。(そう思えば、彼らを「おバカ」とみなすのとは一味違う見方ができると思う。)
 そのうえ基本は歌とギャグで楽しい映画になっているという、誰にでも安心して薦められる映画だというのに。
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 そんな『GSワンダーランド』なことが今の時代も同じように存在することを、先々週末から先週末にかけて多くの自主映画とそれに類する映画を観ていて実感した。
 自主映画って商業映画と比べて、採算を度外視できるから自分の撮りたいモノを撮りたいように撮ることができる。
 それから、公開が約束されているものが多い商業映画と違って、自主映画は作品の出来が良いとより上映してくれる機会が増えることが考えられるから、作り手の完成度に対する意識がより強いことが考えられる。
 実際にそれらの自主映画は、どれも作り手が映画を作る意志が感じられたし、決して金銭的な見返りを期待できる世界でもないのに不平不満を見せずに意欲が感じられる作り手たちが嬉しかった。
 それにひきかえ商業映画の方は…、最近シネコンの予告編で邦画のモノを続けて見たけど、
  マスコミが人権をじゅうりんすることを描いた映画なのに、前面に出ているのは次々と不幸な状況が襲うことよるお涙頂戴
  災害を扱った映画なのに、前面に出ているのは親しい者と離れ離れになったことによるお涙頂戴
  伝染病を扱った映画なのに、前面に出ているのは親しい者を失うことによるお涙頂戴

それから公開中のモノでも
  戦争が個人を踏みにじる映画なのに、前面に出ているのは家族愛によるお涙頂戴
などなど、本当にこんなのばっかり。
 なんでもかんでも涙を誘う映画にしようとするなんて、そうすればウケるんだろうという客をナメた発想としか思えない
 お客さんに対しては「これを見て欲しい」という意志がなく、作り手の「これを撮りたい」という意志もなく、目的は多分「お金」。
 お金が流れて欲しいところはむしろ自主映画的な方なのに、現実は逆の方により流れる傾向が強くなっている。
 まるで「格差社会」の典型のようだが、でもいわゆる「格差社会」は例えば金持ちの子供がいい学校に入って卒業後に高収入を得るという個人の力ではどうにもならない社会構造のことだけど、映画は受け手側の作品の選択次第で簡単にひっくり返っちゃんだけどねぇ…。