最初の市川監督作品は『BU・SU』(1987)だった。
あの映画の第1の特徴は、『アイコ十六歳』(1983)や『さびしんぼう』(1985)などで豊かな表情を見せていた富田靖子が、ぼぼ全編笑わずにムスっとした表情をしていることだった。
あと、それまではドラマチックに描かれるのが当たり前だった教室という場所が、一歩引いた位置から他のクラスメートを嘲笑するような人たちであふれている、人間関係の希薄な場所として描いたおそらくは最初の映画だった。
感受性が強いが故に、そんなクラスメートたちの中で孤立して笑顔をなくしていく富田靖子を「[性格]ブス」とみなしたのがタイトルの由来だが、映画の描き方はそんな彼女の側に寄り添う形で描かれた。
『BU・SU』と2作目の『会社物語』(1988)が日本テレビで放映されたとき、インタビュアーの水野晴郎に対して市川監督が「映画は弱者のためのもの」といった意味のことを言った。
映画に関する名言は数々あるけれど、私はこの市川監督の言葉が一番だと思う。
『BU・SU』は富田靖子にとっては『さびしんぼう』に匹敵するような作品で、『アイコ十六歳』を加えた3本で、80年代は冨田靖子の時代になった。
そして、市川監督も『会社物語』、『ノーライフキング』(1989)、『つぐみ』(1990)、『病院で死ぬということ』(1993)、『トニー滝谷』(2004)、『あおげば尊し』(2005)、『あしたの私の作りかた』(2007)など、苦悩する人々を描いた弱者のための映画を作り続けた。
また、市川監督は「東京を撮らせたら世界一」と言われていただけあって、『BU・SU』の東京に向かう電車の車窓、『会社物語』の朝、『ノーライフキング』の街、『東京兄妹』(1995)の都電、『東京夜曲』(1997)、『たどんとちくわ』(1998)のタクシーの車窓、ざ『わざわ下北沢』(2000)、『東京マリーゴールド』(2001)、「春、バーニーズで」(2006)などで描かれた風景は、そこにはまた哀しげなつぶやき声が重なることが多かったが、それらも包み込むような優しい風景ばかりだった。
いい映画を作る人はたくさんいるけれど、市川監督ほど心の傷を癒してくれるような映画、暖かい気分になれる映画を作る人は他に思い浮かばない。
そんな彼がいなくなったら…、映画を巡る状況がますますいびつになっていく。もちろん悪い方に。
まるで、映画の海がエチゼンクラゲだらけになっていくような気分だ。
なんだよう…。どうすんだよう…。代わりなんかいないんだよ。ホントに。どうすんだよう…。